好きだった女の子の結婚式でスピーチをした話

眠れないので久しぶりにブログを書く。先月友人の結婚式があったので東北の方に飛んだ。結婚式に出るのは初めてだった。随分前に招待状はもらっていて、それと同時にスピーチを頼まれてもいた、けれど、直前まで何を話すか迷っていた。話したいことはたくさんあるような、何もないような、不思議な気分だった。

と、ここまで書いたのが2017年の夏の時点で、放置したまま2019年になっていた。

結婚式の記憶はもう曖昧で、ちゃんと忘れないうちに書かないとだめだな。でもいい式だった。友だちが綺麗だった。わたしはこの子のことが好きだったので、一緒に相合傘で帰った日を鮮明に覚えているけどこの子はきっと覚えていないだろうと思った。でも彼女がたったひとり、自分の晴れの日にスピーチを頼む人間としてわたしを選んでくれたのが嬉しかった。

こないだ自分も結婚した。式はしなかった。生活もあまり代わり映えない。来週は新婚旅行に行く。楽しみだ。

ねこねこねこねこねこ

そうだ忘れてた。ねこをかいはじめた。人が飼ってたねこを訳あって譲り受けた。

ねこはすごい。ねこは可愛い。
立ってるだけで可愛い。うちの子はやや肥満体なんだけれども、大きな図体を、ちぃっちゃいおててで支えながら立っている。可愛い。ふわふわで、おめめがきらきらしてて、にゃあと鳴いて、とにかく可愛い。
ソファに横になっているとねこがやってきて、わたしのお腹の上に寝そべってゴロゴロ喉を鳴らす。信じられないくらい可愛い。

ねこが死んだらさぞ悲しいだろうと想像しただけでつらい。耐えられない。
仕事がいやでも家にねこがいる、ということが救済のようになっている。

恐竜も滅びたんだから人間だって滅ぶ

少子高齢化なんですって。


でも、種の保全って、しなきゃダメなやつですか。

恐竜も滅びたんだから人間だって滅ぶだろう、って思う。いつか来るなら別に抗わなくてもよくないですか。そこで終わるならそれまでの種じゃないですか。


子どもが欲しくない、というか、子どもが欲しいと思えないというか、小さい子どもを連れたひとを見るとすごいなーって思う。


その子、これからめっちゃ辛い思いするかもしれないんですよ。生まれたくなかった、なんで生んだ、って言われるかもしれないんですよ。自殺しちゃうかもしれないし、病気で自分より先に死んじゃうかもしれない。


というか、わたしの子どもが、健やかに生きてくれるとは思わない。自分にできなかったことを他には求めない。

ので、子どもは産まんだろうなぁ、って思っています。

不健全な精神

健全な精神でいたい、いなければいけないという強迫観念に似た感情が自分のなかにずっとある。


原因はわりとはっきりしていて、わたしの母親はうつ病だった。調子が悪いときはまるで会話にならなかったし一日中寝ていたし、ひとに何か言われるとめそめそ泣いていた。わたしは母がそういう状態のときはどうしていいかわからなかった。


祖母、つまり母の母が、「明るくていい子だったんだけどねぇ」とよく言う。わたしは明るくていい子だった母を知らない。

同居の義母(つまり父の母)と上手くいかないと言って泣き、パートで始めた学習塾を生徒にいじめられたと言って辞め、いちにち布団の中で眠ったり食べたり本を読んだりしていた。


明るくていい子で聡明だった母は、学者か小説家になりたかったのだという。


母を思うときじんせいのままならなさを思う。人間の心は脆い、壊れてしまわないように生きていかなければいけないと思う。


ちなみに母は義母が身体をあちこち悪くし、父が病気になってから「自分がしっかりしなければ」と思ったのか「このひとたちはもう恐るものじょない」と思ったのか、割に元気にしているそうだ。


桜の季節過ぎたら

 まだ桜どころか雪の季節なんだけれど、フジファブリックの「桜の季節」という歌が好きだ。ちなみにフジファブリックはこれ以外知らない。あまり歌手単位で歌を聞き漁ることがないからだ。


桜の季節を知ったのは仲良しの友達がカラオケで歌っていたからで、曲もだけれどPVも気に入った。女の子が二人出てくる。百合じゃん。


そのあとまた別の友人たちとカラオケに行く機械があった。小学校・中学校からの友人と4年ぶりくらいに遊んだ。一人働いていて、三人大学生で、わたしは無職だった。


桜の季節過ぎたら

遠くの街に行くのかい

桜のように舞い散って

しまうのならばやるせない


中学校のときとてもとても好きだった女の子が歌うのを聞きながら、わたしは訳のわからない感傷で必死に涙をこらえていた。こういうふうに集まるのはもう最後なのかもしれないと思うと猛烈に寂しかった。


その日はみんなでラブホに泊まってお酒飲んでお菓子食べてひたすらしゃべって眠った。楽しかった。



争いを好まない水辺のいきもの

毎週恋人とスーパー銭湯に行く。

もともとわたしがスーパー銭湯が好きで、「行ったことない」という恋人を連れて行ったところお気に召したようだった。

初めていっしょに銭湯に行った日、恋人が、「裸のひとたちがのんきな顔で湯に浸かってるのがよかった」「人間っていうより、争いを好まない水辺のいきものみたいだった」と言った。


なるほど確かにそういう動物みたいだ。

わたしはお気に入りのつぼ湯に浸かりながら、のんきで争いを好まないいきものたちを眺める。

飽き性

飽き性である。

何かを始めて長続きした覚えがない。


最近ひとのブログを読むのが好きでいろいろと見ているが、数年間コンスタントに更新をしている人を見るとなんて勤勉なんだろうと感動する。

わたしもいっちょやってみるかと思った。